石橋を創って渡る。

日々の創作日記。 このブログは、パソコン版表示を推奨します。 記事は横へと動くようになってます。

創作日記。 5

ショートショートは八割くらいまで進んだ。〝起〟は完成して、〝承〟と〝転〟を繋げるあたりでウロウロしてる。書く内容は決まっているけれど、それを限られた文字数に納める為には、言葉のパズルを何度も繰り返す。そして何度も読み返している内にパズルの形も変わっていくので、また新しいパズルを繰り返す。

あと二日くらいで完成させて送りたいな。

 

自分は一人称視点の小説しか書けなくて、三人称や神視点の文章がどうしても書けない。読む小説も一人称が殆どで、本屋で新刊を見つけても三人称や神視点だと買わないこともある。

これは個人的な意見だけど、小説という媒体は一人称がもっとも適していると思う。漫画や映画は基本的に外から見た構図になってしまうから、どうしても三人称視点や神視点が得意になる。だから常に主人公と同化しているような一人称作品を作るのは難しい。

それに比べて小説は、一人称視点で完璧な作品を作ることが出来るから、一人称という構図をもっとも上手く扱える媒体だと思う。

こうした偏見が高校生の頃から芽生えてしまってから、どうしても小説は一人称を優先させるようになってしまった。

もちろん三人称視点や神視点の小説にも素晴らしい作品は沢山ある。でもそれらを読んで思ってしまうのは、「これは映画で表現したほうが面白そう」や「アニメでやったほうが伝わりやすい」という生意気な感想。(ほんとうに生意気)

映画化やドラマ化を狙って書いている作家もいるけれど、それがしたいなら最初から映画やドラマの脚本を書いた方が絶対面白いものになると思うのだ。最近は小説の映画化やドラマ化が多すぎて、小説で表現する意味のようなものが無くなりかけている気がする(もちろん映像化さて面白い作品もある)。

だから僕が目指しているのは、小説という媒体でしか味わえない物語を書くことで、そうした思いが一人称視点のこだわりに繋がっている気がする。

とはいうものの「映像化不可能」なんていう小説はないと思っていて、どんな小説も一応は「映像化可能」だと思う。

映画の予告で「あの映像化不可能と言われていた小説が、ついに映画化!」なんてことをよく聞くけれど、そもそも読書中は脳内で映像化しているのだから、それが映像化不可能なはずはないのだ。

だから小説という媒体でしか味わえない物語というのは無理に近い……。

つまり……、僕が言いたのは……。

「これは絶対映像化したくない! この物語は小説という媒体で留めておきたい!」と思うような作品を作りたいということ。

 

これからの未来は視覚的な楽しみが中心になって、きっと個人の想像や妄想も簡単に映像できる時代が来ると思う。そして小説という定義が曖昧になって、個人の脳内で楽しむ習慣は薄れていくのではないだろうか。

実際に今はVRなんかも流行っていて、データさえ作れば好きな世界を冒険できる時代になってしまった。そういった技術は素晴らしいし、もちろん楽しいのも分かるけれど、僕としては「想像や妄想なんてもう要らない」と言われているようで、寂しい気持ちにもなるのだ。実際に本を読む人は減っているし、映画は見たけど原作小説は読んでいない人もいる。

だからこそ、これから先「小説っていいよな」「個人の脳内だけの想像っていいよな」と思えるような小説を創りたい。

生意気なこと沢山言ってすみません。でも僕が小説でやりたいことはこんな感じ。ちょっと熱くなっちゃったぜ。

 

 

生意気な未来予想をもう一つ言うと、今はエンタメ作品が多いから、そのピークが過ぎたら必ず「純文学ブーム」が来ると思う。むしろ科学技術進めば進むほど、純文学というのは〝個人の選べる聖書〟のようなモノになると思う。多分!。